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大江健三郎の「新しい文学のために」

  • 執筆者の写真: 植松 大一郎
    植松 大一郎
  • 2023年5月16日
  • 読了時間: 5分

更新日:2023年5月27日

大江健三郎「新しい文学のために」岩波新書、1988年発行

先日、88歳で大江健三郎がなくなった。1935年生まれ、2023年三月三日死去、1994年ノーベル賞授与、このニュースがテレビで流れた時には、なんとも思わなかったのだが、彼の本は読んでいないなと思ったことだけは覚えている。ノーベル賞をもらい、現代文学の先駆者のような方の小説を一つも読んでいないということはわれながら情けなかったというしかない。それもあって自宅にあったこの岩波新書を手にしながらこれなら読めるかなと思った。一方確かに読もうとしたことはあるのだが、面白さに欠けるのではと思って途中でやめた本も何冊かはあっただろう。筋の展開が心をつかまないのでどこまで行ったら面白くなるのか分からないので読むのをやめてしまう。しかしノーベル賞にこだわるわけではないが、すぐに面白さとは別の問題があって深いテーマでも隠されていると思ったほうがよかったのか。本屋に行くと彼に関する評論のようなものも何冊か出ていてちらちらとページをめくると結構柳田国男のことなど書かれていて関係が深かったのかというような今更ながら気が付かず、遅きに失したか、と思う面もある。それでもこの本は面白いか面白くないかは関係なく一応理論的な本であるかのようである。これなら読めるかと思って気軽に読んだが、なかなか何度読んでも大江健三郎の言わんとしているところが見えてこない。3月に読み始めて、5月になってしまった。


結局

この本は何を語っているのか

1,作家としての小説の読み方

2,これから小説を書く人のための入門的考え方

3,小説を書くということと読むことを交錯させることによって見えてくるものがある。

4,この新しい文学とは何か


1️⃣こういうことではないか

最初のテーマは

まず3を彼は目指して書いていると思われる。評論家のように書いたことのない人が小説を本当良い意味で批判したり称賛できるのかというような多少の不満もあり、書くことによって見えてくる小説の神髄というものがある、という。どちらにも交錯するような書き手読み手であってほしいという願いがある。そういうことが我々の文学をより一層高めてくれるのはないか。文学は終わったと言わせない本当の文学に向けて建設的なものができるのではないか、という。


2️⃣2番目のテーマは

次に1,2について

文学の方法論というものが日本では久しく論じられてこないということの問題がある、という。その文学の方法論というものに沿って彼は小説を書いていきたいという長い間の願いがあった。そのためにいろいろ模索をしてきた。その方法のコアにあるのがこの本でいろいろ紹介されているテーマである。ロシアフォルマリストの提案した「異化」という手法、さらにロシアのバフーチンの「カーニバルとグロテスクリアリズム」というような考え方。それにユングやその他の文学理論家の考え方にある、神話化の考え方。メタファー、シンボリック、神話という考え方を小説に取り入れることにより現実世界が変化するような世界を創造することができる。

特に神話の力は大きくて、われわれを原初の世界に引きずり込む力を持っている。


これについては、バルザックの「村の祭司」、ドストエフスキーの「罪と罰」、トルストイ「戦争と平和」フォークナーの「村」などが例示されている。例示されている部分は確かに生き生きとして非常に精彩があるところ採ってきているので、非常に面白い。文学講義を聴いているようでもある。小説は確かにこう読むのかと思わせられる。この神話問題については柳田國男の影響は絶対ある、と思わせられる。あまり言及してはいないが。突然ヤシの実の話が出てきて柳田国男の想像力は素晴らしいという話があるのだが、ここでもっと正面切って論じればいいのにと思わせられる。ここは隠し味なのか。


3️⃣最後に

新しい文学について

これは一つは日本の私小説に対する批判だろうと思われる。

この自分から離れない、対象化できない考え方については想像力も生かせないし、励ましもないし、文学は終わったとされるゆえんだろうということだ。まして大テーマもない。私小説は現実を見て同じような人がいたり、そこには自分では経験できないような人がいたりで面白く読めるが自分の内面を育て新しい世界へ飛躍していくような想像力が生まれてこない。個人の問題を深く普遍化して人の心の中に何か新しいものを生み出すものとはなりえない。これは日本の文壇のあまりに情動的世界が日本の小説をだめにしてきたのかもしれない。

そのためにもろもろの文学的手法を通して書いていく必要があると言っている。新しい文学に必要なことを彼は書いている。これはこの本の結論のようだ。

「一つの小説を経験することで、読み手としての僕らの心は開く。そのような仕方で僕らの想像力は働き続ける。人間の個としての心に発しながら、それを重ねて構造づけつつ描いてゆく文学が、このように巨大な、人々に共有される展望の前に読み手を置くのである。少なくともトルストイをはじめとする偉大な作家たちが、それを成し遂げてきたのだ、新しい文学の書き手たちもそれを目指すのでなくてはならぬだろう」(P145、11,トリックスター)


4️⃣最後の感想

この本に例示されている小説の数も結構多いし、私なども読んでいないものが大半である。この本は若い人に向けて書かれたような体裁ではあるが実際はどうだろう。ベテランの作家や評論家に向けても書かれているのだろう。岩波現代文庫には「小説の方法」というものが出版されている。この時の批評家の言葉がこの本を書く時の反省材料になっているようだ。私自身あまりに知らないことが多く読んでもいない本も多く慙愧に堪えないのであるが、ボチボチやっていくしないのが自分の現状である。ゆっくりと行くしかない。


 
 
 

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